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元サッカー日本代表 森正明の書籍

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インタビュー Vol.003

転機となった、2002年日韓ワールドカップ
神奈川県のJリーグクラブ、湘南ベルマーレの前進であるフジタ工業サッカー部(後にベルマーレ平塚)でプレーし、日本代表に上り詰めた森正明。引退後は、クラブの指導者、地域コミュニティ担当を歴任していたところ、幾多の縁が重なって神奈川県議会議員選挙に出馬することに。1999年トップ当選を果たして飛び込んだ政治の世界で転機となった大きな出来事こそ、サッカーワールドカップ史上初の共催大会となった「2002年日韓ワールドカップ」のキャンプ誘致であった。

インタビュー

Vol.003 「2002年日韓ワールドカップを経て」

―― 2002年の日韓ワールドカップのこと、本(※)では中心の項目にしておりますが、どういう経緯で関わってほしいという話を受けたのでしょうか?

サッカー選手から地方政治家へ 日本代表議長 森正明(すぎさきともかず著)2016年11月タウンニュース社発行

 

関わることになった過程の中には色々とありましたが、まずは横浜国際総合競技場で日韓ワールドカップの決勝をやることが決定したことが前提にあって進んでいった話でした。開会式を韓国で、決勝戦は日本の横浜でやることが1999年8月に決定したことが大きく関係しています。

―― 決勝の舞台が決まったタイミングは議員になってからだったんですね。

 

横浜になるのか、もう1つの候補であった埼玉になるのか、議員になったばかりの頃はどうなるか本当に分からなかったですからね。その後、横浜の決勝戦を成功させるために色々な有識者と関係者の力を結集させて、決勝戦を盛り上げるという目的で「2002年FIFAワールドカップ横浜開催推進委員会」が設立されて、元日本代表・県議会の両方の経験があるということで自分が指名を受けて、日韓ワールドカップの成功に寄与する一人として選ばれた。簡単にまとめると、そういった経緯ですね。

―― そして、日韓ワールドカップのキャンプ誘致に進んでいくことになりました。

 

ですね。(関わることが決まって)その時に思ったのは、韓国との共催ではありますけれども「日本で開催されるワールドカップはどうすれば盛り上がるのだろう」ということ。サッカーに関心のない人たちに興味をもってもらう方法、今で言うインバウンドの方々に対するおもてなしなど、色々と思うことはありましたよ。ただ、自分はサッカー関係者の一人として選ばれた部分もあったわけですから、自分にできることを想像した時、「ワールドカップに出場するであろう国のキャンプ誘致を地元である平塚で実現できるのではないか」といったイメージはしていましたよ。

―― 2002年日韓ワールドカップのキャンプ誘致から現在の(平塚市馬入ふれあい公園の)馬入サッカー場設立に至るまでの一連の流れは、本でも中心の項目にしておりますが、政治家になられた時にワールドカップに関わることを想像していらっしゃいましたか?

 

平塚にはキャンプ誘致ができるポテンシャルがあると思っていましたから、自分の中にはあったのかもしれません。そこの一連の流れは、順を追って話の説明をしていかないと状況を理解していただけないと思う部分もありますので、ぜひ本を読んでもらいたいです。馬入の練習グラウンドを作るといっても、簡単に話しが進んでいったわけではありません。

―― 日本代表選手時代に目指した舞台……。ワールドカップは森さんにとって身近なものだったんですか?

 

フランス大会は「ドーハの悲劇」を乗り越えて、掴み取ったわけです。自分が日本代表選手として戦って、出場を掴むことのできなかった世界大会。自分たちの世代が果たせなかった悔しさを、次の世代が果たしてくれると思っていたものが、ロスタイムのたった数秒でひっくり返されてしまった……。あの「ドーハの悲劇」は1993年10月、自身の現役ラストシーズンの出来事でした。那須高原の遠征か合宿中だったか、古前田 充さんや上田 栄治さんたちと、ベルマーレのクラブ関係者とテレビで観ていたんです。観ていて本当に苦しかったですよ。

―― そして日本がはじめて出場した1998年のフランス大会には、ベルマーレの選手たちも日本代表の選手として出場した背景もありました。

 

1998年は、とっても近くに感じました。実際、試合も現地で観ることができましたから。それこそ鹿島アントラーズに移籍してしまいましたが、サイドを走っているナラ(名良橋晃/元ベルマーレ)に声をかけたら、手を挙げてリアクションできるくらいの距離で観ていました。

―― 現役を引退してコーチとして代表選手を送り出す側となったわけですが、クラブの関係者として現地に行かれてたというわけでもなかったのですか?

 

いえいえ、まったくのプライベート(笑)。当然、クラブにも許可をもらって行きました。もちろん、当時はコーチングスタッフだったわけですからクラブから選ばれた日本代表選手たちに対して、チーム関係者の目線で観ていた部分はあります。視察という名目もあったけれど、一番は憧れです。フランス大会というのは、憧れの気持ちで観ていました。とにかく日本がはじめて出るワールドカップは現地で観たかったんですよ。

―― フランス大会は日本戦の3試合を現地で観たんですか?

 

ベルマーレ市民応援団の方々と一緒に、アルゼンチン戦、クロアチア戦、もうひとつフランスの試合を観ましたね。そうそう、思い出と言えば、クロアチア戦の試合前に平塚と中継をしたんですよ。平塚の競輪場でパブリックビューイングをSCNさん(湘南ケーブルネットワーク・湘南エリアのケーブルテレビ局)がやられていて、それでたまたま僕が現地にいたものだから、試合前のスタジアムの雰囲気や周囲の状況などを現地から伝えたりして。今思えば、その時からレポーターみたいなことをやっていたんですね(笑)。

―― どうでしょう、キャンプ誘致の経験は議員としての大きな自信になっていると感じられている場面はありますか?

 

よく思うのは日本代表選手だった時代、外国での試合や練習、現地での触れ合いなど、自分の目でみれたことは自身の成長になりましたよ。サッカーの世界の視野ではなく、違う世界観でその国をみる・知るという経験ですね。僕は現役時代からなんですが、サッカー教室や指導をする場面では子供たちの顔つきをよくみるんです。特に東南アジアや中東といった国々で、現地の方々と触れ合う機会があったのですが、「貧困という状況の中でも、生き生きとした顔を凄くしている。それはどうしてなんだろう」って思った。日本の場合は、逆かもしれませんよね。日本と外国の違いを、サッカーを通して体感したこと、それがキャンプ誘致を進めていく中で、時に話しに重みを持たすことが出来た部分はありましたよね。

―― キャンプ誘致に至るまでの一連の話を聞くたびに本の制作を思い出しますが、振り返ってみていかがですか?

 

ライターであるスギさんとの打ち合わせも含めてね、良い言葉をたくさんもらいました。特に対談をさせていただいた方たちのキャリアのタイミングといいますか、前に進まれているタイミングでの話しだったのも凄くよかったです。風間八宏さんであれば、フロンターレが強くなっていく中での話しでしたし、川淵三郎さんもバスケの改革を進めている時で、河野太郎さんも外務大臣をやられていて。上田栄治さんも福島にあるサッカーのナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」の再スタートをやられていますし、カミ(上川徹)やテツ(高田哲也)も、新しいステージで頑張っていて。そうした皆さんの変化の中で、良い言葉をたくさん頂いたように思います。スギさんはどうでしたか?

―― ひとつの本としてまとめていくにあたり、スポーツ・サッカーという軸で方向性を貫き通すことができました。編集役を担ってくれた宮坂さんをはじめ製作スタッフも方向性をわかってくれた上で、森さんもインタビューにずっと付き合ってくれた。幸せな時間でしたよね。これから新しい活動をしていく、取材活動をしていく中で大きな自信になっています。湘南ベルマーレホーム最終戦(2016年10月)での書籍先行販売サイン会も大勢に方に来ていただいて、ありがたかったです。

 

反響も凄かったですよね。先行販売分はすぐなくなってしまって。スギさんと一緒に作り上げてたものが地元の書店では3ヶ月も売上トップで、僕が本当に伝えたい地域の中で広がっていったというね、貴重な経験というか、こんな展開になるとは思わなかったですよ。自分が議長になるという節目のタイミングで出せたことも本当によかったです。自分は人生の節目で、例えばサッカー選手を引退した時に引退試合やセレモニーを経験できる環境にはありませんでしたから、議長就任の際に大勢の方に祝って頂いた会でお披露目することができて、本当に嬉しかった。

―― 本の中では地域コミュニティ時代の話もありましたが、当時は地域のテレビやラジオでどんな番組をやられていたのですか?

 

ベルマーレを応援してくれていた水島かずあきさん、水島さなえさんと知り合ったのがきっかけでしたね。ふたりは湘南平塚コミュニティ放送・FMナパサの立ち上げにも関わられていたので、そうしたつながりで20分番組を7年やりました。それこそ最初の頃はサクラ書店の高橋社長の御協力もあって、サクラ書店の事務室で収録していたりもしたんです(笑)。地域の方々の力で立ち上がったラジオ局と番組でしたよね。

―― 番組は週にどのくらいの頻度だったんですか?

 

ベルマーレの応援番組を月曜日と木曜日にやっていて、朝と夕方の時間で放送されていました。夕方は朝と同じものを流していましたね。当時のJリーグは、水曜と土曜日に試合がありましたから試合結果と次節の展望、自分の得意分野であった教育やスポーツに関すること、あとは自分がやっていた平塚市内でのサッカー指導の活動など、色々と話をしていました。SCNの方でも番組がありました。番組では「心の目で見るJリーグ」という障がい者サッカーに関する放送で賞をもらったりして。改めて振り返ってみると、今の仕事につながる経験になりましたよね。もともとは九州の人間でしたから、標準語を凄く意識して話をしていましたし、地域のことや番組づくりの約束事や流れなど、情報発信の勉強にもなったと思います。ラジオ番組を躊躇なくスタートすることができたのも、理由はあったんです。それはサッカーの同期であった、都並敏史と藤川孝幸がラジオをやっていたんですよ。

―― ニッポン放送のラジオ番組『都並クン・藤川クンのイエローカードなんて怖くない』、当時の人気番組ですね。

 

選手・コーチの頃から取材対応でコメントをする、インタビューをうける経験というのはしていましたけれども、彼らが出来るのなら自分もできるのかなって。だからナパサの番組の話をいただいた時、迷いなくやることにしたんです。サクラ書店の高橋社長がミキサーをやっていたり、それこそスタッフの皆さんが一生懸命でしたから、僕も楽しかったですよ。FAXや手紙を頂く時は特に嬉しかった。解説が面白かったとか、ね。ラジオのファンになってベルマーレのサポーターになった方もいてね。今でもベルマーレの試合、スタジアムのゴール裏で応援している方々の中には、当時ラジオを聞いていた方もいて、今でも応援してくれていることを嬉しく思っています。

―― 平塚のらしさ、湘南地域の強みだなぁと感じるエピソードに思いますよ。

 

ボランティアの力というものが地域にはあって、ありがたいですよ。それこそベルマーレ平塚から湘南ベルマーレ立ち上げの時は食堂もなくってね。水島かずあきさんが中心となって食堂をつくっていただいた。青果市場にいって野菜をもらったり、市場にいって魚をもらったり、農協にいってお米をいただいたり……僕も動きましたよ。食堂ボランティアでは、木村さんに小澤さんといった今の森心会の方たちも、当時から地域のために一緒に活動してくれて凄くありがたかったですよ。

―― 湘南国際マラソンもそうですが、地域のために活動するボランティアの力は湘南地域の強さですね。

 

走る人もいれば、支える人もいる。ボランティアとの関わり方をしっかりと活かしていく、尊重していく、それが地域の力となっていると僕は思っています。


Interviewer_Text●すぎさきともかず(スポーツライター)
InterviewPhoto●Shonan Major Company
 2018年12月取材●次回は教育・スポーツの環境整備についてを予定しております