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インタビュー Vol.001

サッカー選手から県議会議員へ。
言葉にするのは簡単だが、決断の背景には様々な理由がある。プロサッカークラブ「ベルマーレ」の前身、フジタの時代からサッカー選手として活躍し、93年のJリーグ昇格メンバーでもある森議員。選手引退後は、ベルマーレ平塚のコーチとして中田英寿を指導した。「議員になるなんて想像もしていなかったです」そう当時を振り返る森議員に、議員になるまでを聞いた。

インタビュー

Vol.001 「サッカー選手から県議会議員へ」

―― 引退されたのは32歳の時。今から16年前の1993年ですよね。

 

指導者としてベルマーレのコーチに専任となったのは1994年からですね。1993年に一度コーチになったんですが、94年の春ぐらいまで選手に戻った時期があったんですよ。サテライトリーグ(出場する機会の少ない若手選手に実戦の機会を提供する事を目的に、1992年度から毎年Jリーグの公式戦と並行して実施している育成リーグ)のコーチをやっていたのですが、1993年の途中から選手に戻りました。JFLで優勝してJリーグの昇格が決まった翌年(1994年)からコーチに専任となりましたね。

―― 当時は議員に興味があったんですか?

 

全然ないです(笑)。

―― 議員になっていなかったら、どこかのチームの監督をしていたり……。

 

ピッチの上で仕事をしているでしょうね。最後まで練習に残ってゴールキーパーの練習に付き合っていたり、選手と一緒に走っていたり、サッカー関係の仕事をしていると思います。自分がもっと早い段階で良い指導者に巡り合っていたら「もっと違ったサッカー人生になっていただろう」という思いも強かったですから、プレーヤーを引退した後は良い指導者になりたいという思いもありました。中学、高校時代に良いコーチに巡り合っていたら人生変わっていたんだろうなって思いますよ。

―― そうした思いから平塚市立大野中学校サッカー部での指導をされている部分もあるんですね。指導されている中で「自分をもっと出そう」といったコーチングが凄く印象に残っています。「一人ひとりを見てるから」という森さんの言葉は子供達にとって凄く嬉しいだろうなって思いました。

 

チーム全体を指導することも大事なことですし必要なことです。でも、中学生くらいまでは個人の力をどれだけ伸ばして上げられるかっていうことが必要だと思うんですね。個人の力を引き上げるためには自分の事をよく知らないと伸ばしていけないですし、個人がレベルアップする事でチームがレベルアップする事をしっかりと伝えなければいけない。サッカーはチームプレーだとよく言いますけど、チームプレーをチームでやるためには個人がチームの中で何をやらなくてはいけないかを意識して判断する、またそれを出来るプレーヤーにならないとチームが成り立たないんですよ。

―― 最近、サッカーではよく「個の力」が大事だと言われてますが、僕自身、子供の頃からベルマーレを見てるとそんなの当たり前だと思うんですね。「3点取られても4点取る」といったチームスタイルだったベルマーレでプレーしていた事も影響しているのかとも思うんですけど。

 

ベルマーレの前身であるフジタの時代から個人の能力を生かしてあげる、個人の力を生かしてチームを作るというのはやっていましたからね。特にベルマーレ平塚のヘッドコーチだったニカノールが上手かったんです。ニカノールの指導方法はそんなに難しいことを言っていないんですけど、選手の引き出し方が凄く上手くて、選手としてもコーチとしても勉強になりましたね。

―― 具体的に言うと? 特に覚えているエピソードは。

 

例えば、個人名を挙げるなら名良橋(ベルマーレOB、元日本代表DF/右サイドバック)。彼はもともとフォワードだったんですが、彼のスピードや運動力を生かしてチャンスの時には駆け上がる右サイドバックにポジションを変えました。僕が日本代表時代にやっていた役割を彼に求めたんです。野口(ベルマーレOB、元日本代表FW)もそうですね。彼は市立船橋高校サッカー部でミッドフィルダーだったんですが、ボールキープ力やゴールする嗅覚を引き出してあげてフォワードに変えた。岩本輝雄(ベルマーレOB、元日本代表MF/DF)も元々ミッドフィルダーでパスを出す役割だったのですが、キック力とキックの正確性があったので左のサイドバックに彼を据えました。逆サイドにボールを供給する役割や名良橋と同じようにチャンスを見て左サイドを駆け上がる事を岩本に求めました。ニカノールは日本人のコーチや監督が「あいつはミッドフィルダーだから」と型にはめた事を一度分解して、チームのコンセプトに必要な選手の能力を当てはめたって事ですね。

―― ポジションは、チームの中で役割を与えた上で成り立っていると。

 

一番大事なのは選手がそれに応えるべくプレーしてくれた事です。先ほどお話した個人の能力がチームとして噛み合ったからチームも強くなったし、チームがやろうとしていることがサポーターや見ている人にも伝わって共感してくれた。その結果がベルマーレは攻撃的なサッカーをするチーム「湘南の暴れん坊」という姿に写ったんだと思いますね。

―― 「点を取られても取り返す。ボクシングで言うKO試合が多いチーム」と、様々なメディアで発言されていたブレのないコンセプトでした。

 

攻撃は最大の防御といったチームスタイルは引き分けがないという当時のJリーグの方針にも当てはまっていましたよね。引き分けにも色々あります。勝ちに等しい引き分けもあるだろうし、ホームで勝ち点3を取らなくてはならないのに引き分けてしまう事もある。でも、初期のJリーグは90分試合した後に延長戦があって、ゴールを取れば試合終了というゴールデンVゴール方式でした。それは日本サッカーがプロになったばかりの移り変わりの時期だったからでもあると思いますが、見る人たちが勝ちを求めたという事だと思うんです。サッカーでは「いかに失点しないで勝ちに結び付けるか」という事が世界的に主流だと思うのですが、Jリーグは見る人がどうやったら楽しんでもらえるかを考えた結果、引き分けのないVゴールやサドンデスを採用しました。それは凄く面白い事だと思いましたね。

―― そうしたコーチ業を経験していく中、ご自身が進む選択肢の中には監督を目指すといったアプローチもあったと思います。

 

自分はプレーヤーを経てコーチを経験しましたから、当然、強い選手を育てたいという強い想いもありました。自分のチーム(ベルマーレ)に恩返しする意味では、チームが成長してほしかったですし、強くなってほしかった。そうした想いで一所懸命やってきたのですが、その中に、今思えば大きな勘違いを一つしていました。それはプロの選手を集めて戦わせればプロサッカークラブは成り立つと思っていたんです。間違いだと気づいたきっかけは、各中学校や小学校を回ってサッカーの指導をした時です。これだけサッカーが好きな子供がいる中で、環境を整備する事がサッカーの世界だけでは難しいと思いました。行政と一緒にスポーツを普及させていく事や、政治の力も必要なのかもしれないと思ったんです。そうした事が立候補するきっかけにも繋がっているんだと思います。

―― 環境と言っても色々あります。サッカーで言えば、例えばグラウンド。

 

グラウンドをはじめとしたハード面もそうです。テニスや野球に剣道などなど……、ハード面の環境整備はサッカーだけに限ったことではありません。子供達が一生懸命に取り組める環境も大事ですし、色々なスポーツが楽しめる環境整備も一つあります。

―― これがまたヨーロッパに目を向けると色々なスポーツを子供達がやっているんですよね。

 

そうなんですよ、季節によって違うスポーツをやっていたり。そこは日本人の良い意味では美学みたいなものかもしれませんよね。野球であれば野球のみを一生懸命やる事が日本人の「美」として写っているのかもしれません。しかし、色々な種目の共通性も多いと思います。競技は違うものでも、例えば走るという共通点で色々な競技を結び付ける事もできるでしょう。自分自身、そういう事を考える環境にいませんでしたから。

―― 学校体育ではなく、社会体育をもっと見ること、日本のスポーツを体育としてではなくスポーツとして見たかったと。

 

コーチ時代でも現役時代でも、外国へ行って海外のクラブ環境を見る度に日本とのギャップを凄く感じていたんです。環境の違いがプロの世界だけでは補い切れない、いわゆる歴史の違いがあるのだなと感じました。クラブの違い、気候の違い、国民性の違いなど、挙げればきりがありませんが、変えられる部分もあります。例えばアメリカです。サッカーが普及していなかったアメリカもワールドカップを境に意識が変わったと思うんです。色んな国を集めて出来たアメリカという国にはヨーロッパ系の人がいたり、南米系の人がいますよね。そうした国の中にサッカーの良さというものが少しずつだけれども浸透していった。1994年にアメリカで行われたワールドカップでサッカーをアメリカ国民がある程度認知して、プロリーグが広まっていき、世界の舞台で戦えるようになった時にアメリカは国としてサッカーをバックアップする環境が整備されていったんですよ。

―― 先にお話されていた「個」を尊重していく事も環境整備の一環です。

 

子供達を指導することは凄く難しいんですけど、駄目な部分を補わせる事や駄目な部分を伝えてあげる事も凄く大事だと思います。欠点を補う、長所を伸ばす、この2つがどれだけチームの中で必要とされているのかを伝える事が指導する側の大事な部分です。それをしっかり見極められる監督やコーチがいれば子供たちは凄く幸せでしょう。だから環境整備の中には選手や子供達の良さを見極められる指導者を多く生み出す事も含まれているんです。1993年から指導者の育成、指導者講習会をやってきました。指導した指導者の中には小学生を指導する方、中学生を指導する方、プロのクラブを指導する方、大人を指導する方もいます。指導者を目指す方々の指導をさせてもらった経験が私にとっては凄くプラスになっています。多くの良き指導者を生み出していく環境整備には、これからも取り組んでいきたいですね。

―― ご自身の中で環境の幅が凄く広がっていく中、政治の世界に入る決定打というのは誰かとの出会いが大きかったのですか?

 

河野太郎さんとの出会いです。河野太郎さんもベルマーレを応援してくれていましたから。それと、ベルマーレが経営的な理由で追い込まれていることをヒシヒシと感じていたことも大きかったですね。96、97年頃の話ですが、当時は負債額をいかに少なくして次のステップにバトンタッチするのかをクラブは考えていました。それはトップの判断ではありますけれども、クラブとしては親会社であるフジタが撤退をして限られた時間の中でいかに制御していくかに当時の重松社長は没頭していました。それを見ていて「本当にそれでいいのか、何とか生きのびさせる方法はないのか」といった気持ちがあったんです。必死になって昇格までさせて、今度はたたむ役をするのかって、凄く悔しい想いがありましたから、何とか踏ん張る事が出来ないのかと前向きに捉えました。98、99年の頃です。その当時燃やした情熱というのは本当に熱いものであったし重いものだったと思います。自分は九州から来たよそ者かもしれないけど、ある意味では冷静に地域を見る事が出来る。クラブが継続するためには街が一つにならなくてはいけないと思いました。地域にずっと住んでいるとなかなか地域の良さに気がつけなかったりします。僕自身、オリンピックやワールドカップを体験する事で色々な国を知りましたが、外国ではクラブがある街とない街では街の元気がまったく違ったんです。ひとつのプロチームが地域にあることによって色んな種目のスポーツが盛んになるという事実があった。色んな種目が盛り上がることで、住んでいる子供たちの目が輝いているんです。だから、ベルマーレをなくすことは絶対にしてはいけないと思ったんですよ。

―― プロサッカークラブの消滅問題は横浜フリューゲルスが社会面でも大きく取り上げられてましたし、ベルマーレが「この先どうなるのか」その頃は何も分かりませんでした。当時はどんな状況だったのですか?

 

1998年の時の話になりますが、私はベルマーレ平塚から湘南ベルマーレに名前を変更しようと動きました。理由は、親会社が撤退をして地域のクラブとして再スタートするために25万人(当時)の平塚市だけでクラブをバックアップするのではなく、湘南というエリアまで広げることで地域スポーツの可能性はより広がると思ったからです。しかし、Jリーグに使用するチーム名は議会がある街でなければ使ってはいけないというのが原型にあります。だから私は県議会に当選させて頂いた時に、川渕三郎チェアマン(現・日本サッカー協会名誉会長)をはじめとした日本サッカー協会の方々に当選の報告をお伝えする中で「ベルマーレはこれから至難の道が続いています。その中に名前の変更が考えられればぜひとも検討して頂きたい」というお話をさせて頂きました。同時に平塚市とも話をして、湘南という名前のチームはスタートを切ったんです。

―― いきなり平塚から湘南に変わった……そんなイメージをもっている方もいらっしゃったでしょうね。

 

もちろん、湘南に名前が変わったからといって湘南地域の人達がすぐに応援してくれるわけではありません。大事なのは応援してくれている7市3町の人達に密着できるようなアプローチをしていくことだと思うんです。一番良いのは7市3町の各市町で試合をすることですから、スタジアムのキャパシティ問題などJリーグが掲げる要件が満たせればどんどんやっていってほしいと思います。残念ながら今のところ実現できてはいませんが、私がチームに在籍していた時はサテライトの試合を藤沢市や厚木市でしたこともありましたから、一歩一歩、ベルマーレには進めていってほしいです。

―― ベルマーレだからこそ出来たという地域密着の在り方をみせていってほしいですよ、本当。それだけ大変な時期に議員になられた森さんですけれども、当時はやはり不安も大きかったんですか?

 

不安でしたし、自信なんてありませんでしたよ。立候補した時は、とにかく多くの人達に会おうと一生懸命でした。26万人いる平塚市民の方々に、一人でも多くの人にお会いして森正明を知ってもらおうと思いました。だから朝6時から8時まで、通行人の方に覚えてもらうために声をかけて、はじめは「なんだこいつ!?」という感じだったのが最後には「がんばれよ!」と言って頂けるようになりました。8時半から地域を回って地域を良くするために活躍している人たちの話を聞いて、その人たちから指導を頂きながら自分を覚えてもらう。おかげで平塚の全ての道を覚えることができましたし、各地区で頑張っている人も把握できました。地方の声、地域の声を聞くことが我々政治家の仕事。そういう人が地域の声を持っているんです。例えば、あそこに信号機がないですとか、あそこの溝が危ないですとか、知り合ったのだからそういう声をもらう事ができます。それが県のレベルで出来るのか、出来ないのであれば市の行政の方に伝えるネットワークもできました。それが国のレベルでなければ出来ないことであれば河野太郎さんにお伝えする、相談する事が出来る。そうした連携がこの10年で出来たのかなと考えています。

―― ダイレクトに生の声を聞けるというのは、凄く新鮮な事であり、やりがいですね。

 

本当、やりがいですね。今、財政が厳しい現状だからこそプライオリティ(優先順位)は何かを凄く考えて行動しています。何が一番なのかを。でも、それはコーチ時代に選手へずっと言ってきたことでもありますから、自分に置き換えればいいだけなんです。地域において優先順位が高いことは何か。それを判断する力を身につけてきたように思います。


Interviewer_Text●すぎさきともかず(スポーツライター)
Photos●藤井元輔(フォトグラファー)
 2009年8月取材●次回のインタビューは「県議会議員になってから」をお届けいたします