スペシャル

バックナンバー

Interview Series
【芝生のバンディエラ】

Interview Series
【サッカー選手から地方政治家へ】

元サッカー日本代表 森正明の書籍

サイト内検索

インタビュー Vol.002

平塚を知る、神奈川を知る。
サッカー界から県議会の世界に飛び込むこと。それは「知らない世界へのチャレンジ」とも言えることだが、ある意味「サッカー選手になる、日本代表選手になる」といった過去のチャレンジとまったく同じことでもある。選手・コーチ時代に培った「知らない世界へのアプローチの仕方」により幅を広げ、より深く進んでいくことになる県議会議員時代。 その1期目に取り組んだことは「平塚を知る、神奈川を知る」ことからであった。

インタビュー

Vol.002「知ることからのスタート」

―― 議員になってから、はじめにやりたかった事というのは何だったんでしょうか?

 

色々やりたいことはありましたが、その前に「どれぐらいのスパンで議員の仕事を考えているのか」という部分を凄く念頭に置いていましたね。いわゆる選挙民との契約というのは4年間ですから、その4年間で何ができるのかを一番に考えました。もちろん、4年で終わってしまうことが良いのかというと違いますが「限られた時間の中で何を最低限やらなければならないのか」ということが、頭の中にはありました。神奈川県には分野を分けると8つの分野(文教・防災警察・環境農政・商工労働・県民企業・厚生・建設・総務政策)があります。その8つすべてを一度やってみたいと思っていましたから、全部やりましたよ。というのも、何か困り事があって相談をしにくる方は、相談する相手が相談事に関する分野のスペシャリストだから相談する訳ではありませんよね。だから全部回ろうと思ったんです。どんな相談事でもしっかりとお答えできる議員になりたかったですから。

―― 様々な質問に対してしっかりと答えられる「幅」を広げることをはじめにやったということですよね。当然、8つの分野すべてを回るのには時間もかかったと思うのですが。

 

全部回るには少なくても8年は必要だと言われておりまして、そのくらいの時間はかかりましたね。ただ、現在3期目になり、ようやく自分が本来やりたかった分野で色々とやらせてもらえるようになってきたんです。スポーツを含めて教育の分野はスペシャリストでありたいという想いも強かったですから、現在は教育の分野を軸に活動をしています。

―― 教育というとなかなか変わらないというイメージがあると思います。

 

おっしゃる通りですが、神奈川県は私学が日本ではじめてスタートした(フェリス女学院が日本初の私学)県ですし、県立と私立が切磋琢磨することによって神奈川県全体のレベルアップに繋がったという過去の背景もあるんです。そう考えると神奈川県は教育の向上に対して積極的な県ともみれます。今まで神奈川県は人口の移動が激しく、私が議員になる前では県立高校が少なかったんですが、25年くらい前に人口が急激に伸びた事により県立高校が足りなくなってしまった。その結果、その時に高校の数がもの凄く増えたのですが、それ以後から現在に至るまで少子化により、学校が増えたにもかかわらず子供の人数が減ってきました。そうした、いわゆるハード面の部分は統廃合でクリアしてきたのですが、その一方では、ソフト面の部分である教育レベルの向上も図らなければいけません。教師と生徒、親と子供、様々な関係性で成り立っている教育という分野のレベルを総合的に上げていくというのは難しいところもありますが、様々な問題に精一杯取り組んでいこうと思っています。私学の持っている「建学の精神」を引っ張り出し、高校教育のレベルアップはまだまだ図れると思います。

―― そうした教育への想いは、議員になる前から持っていた部分でもあると思いますし、ある意味では、議員をやりながら「やれること、やりたいこと」がクリアになった結果という想いでもあるのでしょうか。

 

そうですね。物事の見方というのは、漠然と大きな物の見方から具体的詳細に映し出していかなければならないこともあると思うんです。例えば、指導者・教育者育成の部分と、それに見合うだけの環境整備というのがあります。環境整備というのはサッカーであれば「芝生のグラウンドが絶対に必要だと思う」といった具体例になるでしょうし、教育者・指導者の場合ですと、言葉やコミュニケーションも大事だけれど「一緒になって汗をかいてあげられる状況をつくろう」という具体例になると思うんですね。それは指導される側である子ども達にとって一番嬉しいことであると思いますし、それを求めていると思います。もちろん、体力面の部分で先生方ができない状況もあると思いますよ。先生方も50歳後半ともなると若い頃と比べて身体の動きも当然悪くなりますし、遊び時間に一緒に遊んだりすることも減ってきたりすると思うのですが、そこは今まで培ってきたテクニックを駆使して、一緒に遊んだりする時間は少なくなるかもしれませんが「先生達の気持ちはいつも子どもと一緒」というようなものをしかりと打ち出していければ子ども達もきっと分かると思うんです。

―― 指導者のスキル向上と環境整備の向上。その両方がないと教育の向上は成り立たないとも言えます。

 

先生方のスキルといっても様々なことがあります。授業を教えるスペシャリストとしてのスキルも当然必要なことだと思いますが、春休みや夏休みといった期間中に授業以外の部分を準備できるような風習を根付かせることも大事だと思いますね。今現在、年度が変わる時期には学習指導要領の変更に伴って指導の内容がどう変わったか、ここの趣旨はどこにあるのかを理解する時間と、指導している学年がいっきに変わることに対応する時間の2つがあります。ですから、ある意味での子どもに対するゆとり教育ではなくて私は先生方にそういうゆとりを与えてあげたいという思いがある。そうしないと先生方はパニックになっちゃうと思うんですよ。

―― 1度話をスタートに戻しますが、先ほどはやりたかった部分を聞かせて頂きました。では、議員になられてからはじめにやったことは何だったんですか?

 

まずは県庁へ行く道を覚えましたね(笑)。

―― そこからだったんですか(笑)。

 

いやいや、本当に行ったことがなかったですから(笑)。はじめて県庁に行った日の事が凄く印象に残っています。県庁の入口に入ったら議員のバッジを付ける議会局の職員の方が待っていたんです。それでその方にバッジを付けてもらったのですが、私としては「いやいや自分で付けますよ」と思って付けようとしたら、その方は「これが自分たちの仕事ですから付けさせて下さい」と。 自分がそんなに重宝がられることに対してなんとなく気恥ずかしい部分があったのですが、同時に議員という仕事の重みも実感したんですよ。それから私が何をやったのかというと県の仕事を理解する事でした。それは県の仕事をする手前の部分、神奈川県に起こっている様々な問題を理解することも含めてです。

―― 当時、直面していた様々な問題の中で一番覚えていることは何だったんでしょうか。

 

よく覚えているのは当時の経済状況のことですね。それは資料からの情報でしたが、平成11年に神奈川県がもしかすると財政再建団体になるかもしれないという状況だったんです。バブルがはじけ、京浜工業地帯等々の企業が不況に陥り税収も入らない、なおかつ教育費や治安維持費などを運用するための必要経費も当然かかる。そうすると今まで使っていた神奈川県のお金では回らない状況、税収プラス何かをやらなければならないという状況になりそうだった。要するに私が議員になった頃の神奈川県はお金面でいえばマイナスからだったんです。景気・経済が良い状態からのスタートであればそれが落ち込んだ時に慌ててしまう人もいると思うのですが、私の場合はある意味、どん底からのスタートでしたから慌てることなんてありません。徐々に経済も動きだし、バブルの崩壊から復活しはじめ、なんとなく明るい兆しが見えてきたのが平成13年から17年くらいだったと思います。

―― 神奈川県の状況と県の仕事を知ることからのスタートだったんですね。

 

もちろん、県議会議員になるわけですから議員になる前から神奈川県の核となる部分は予習していったつもりでした。しかし、実際に現場をみてみたら学んだ事や予想していた事とは全然違うというのはよくある話じゃないですか。だから県の中で問題があれば直接足を運びましたし、それと同時に私は平塚市の選出ですから、平塚市のことを併せて聞いて動き回っていましたね。その時、ある方から言って頂いたのは「平塚市のことは森議員がどういうものにでも関わっていられるような、市の番頭みたいな想いでいてほしい。何かあれば平塚市役所の部長や課長・担当の方のところに行って状況を自分の目で確かめることが大事だ」と言われたことがありまして、とにかくそれをやりました。もう本気でね。今でこそ市役所や県庁のどの部署でどういう役割をやっているかというのを分かっていますが、最初は分からないじゃないですか。やはり最初は自分の街である平塚市を知ること、そして神奈川県を知ることだと思いましたね。

―― そうでなければ「一緒に変えていきましょう」というマインドにはいきませんしね。

 

選挙前に掲げたマニュフェストの中にはやりたいことが当然入っているわけですけれど、その前の段階で今までの現状、それまでの歴史的背景を分かっていなければ「やりたい」という言葉の重みもないですし、それがあるからこそ次に行く時のベクトルが見えてくると思うんです。

―― そんな中、知ること以外の部分もあったと思います。例えば、転機となった出来事があったり……。

 

今考えてみると不思議なもので、神様がこういうシチュエーションを作ってくれたのかなというくらいのタイミングで2002年の日韓ワールドカップがあったんです。私が議員になったのは今から11年前の平成11年4月。一期目の中で、1999年の時にはベルマーレの消滅を阻止するために何をしなければいけないかということを考えていましたし、2002年の時には横浜で決勝戦をやることになった日韓ワールドカップを成功させるため、もっと言うと、日本と韓国の共催をどうやってスムーズにいかせるのかということを考えていましたね。


Interviewer_Text●すぎさきともかず(スポーツライター)
InterviewPhoto●美濃島 将人(Shonan Major Company)
 2010年8月取材●次回のインタビューは「2002年日韓W杯を経て」をお届けいたします